篠島 千年以上続く歴史、伝統技術の伝承

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 篠島は、愛知県の知多半島の先端「師崎」と、渥美半島の「伊良湖岬」を結んだほぼ中央に位置しています。島の外周はおよそ8キロメートル。河和・師崎・伊良湖の各港と高速船によって結ばれ、同じく知多半島と渥美半島の間にある日間賀島、佐久島とともに、三河湾の観光の拠点となっています。これらの島々は総称して「愛知3島」と呼ばれ、中でも篠島は、三河湾の入り口に位置するため、古くから海上交通の要地として栄えていました。
 篠島には、先史からの遺跡が存在し、数千年もの昔から人々が住んでいたと伝えられています。実際に多数の土器や貝塚が発見されており、1986年に、神明神社の社務所の建て替えの際に発見された貝塚では、きざみ目のある鹿の角や縄文時代の土器・骨角器など、全国的にも珍しい出土品が見つかっています。その昔には、伊勢神宮を創建したといわれる倭姫命が伊勢湾を巡幸中に鯛の漁りをご覧になったことで、篠島を御贄所と定めたとの伝承も残っており、1000年以上たった今でもおんべ鯛奉納の伝統が途絶えることなく行われています。つながりの深さから、島の一部は今でも伊勢神宮領となっています。島のほぼ中心にある神明神社は、篠島を「御神界」と定められた倭姫命の荒御霊を奉斎したことが創祀として伝わり、鎌倉時代創建の八王子社とともに、神宮同様20年に一度の遷宮を継承しています。造営にあたっては、主に内宮の東宝殿の御古材を下賜され、その殿舎をほぼ移築する形で神明神社が、また神明神社の古材を利用して八王子社が造営されました。神明神社においては実に約1200年、八王子社においては約800年もの長きに渡り、祭礼は受け継がれています。篠島の歴史と伝統は、島民の手によって守られてきました。

古代、倭姫命が天照大神を伊勢に祀るにあたり、その御贄所(おんにえどころ/神宮にお備えする魚介類の漁場)に篠島を選定し、神領として荒魂宮を祀りました。さらに贄所守護のために宝亀2年(771)に伊勢神宮より土之宮を篠島に勧請し、その後、荒魂宮、土之宮を一社に祀り「伊勢土之宮」と尊称しました。 土之宮を勧請してからは、伊勢神宮に参拝する者は「宮巡り」と称して、篠島に渡り必ず伊勢土之宮に参拝する慣わしとなりました。後世に神明宮と改称され、さらに明治中期より神明社、昭和20年代に神明神社と尊称しています。

20年のときを経て、島の大工による御造営を待つ神明神社の旧社殿。

海神であり船の神様として尊信されている八王子社は、鎌倉時代中期の正応元年(1288)9月に、伊勢国渡会郡の箕曲大社より勧請した神社として伝えられています。社殿は神明神社と同様に伊勢神宮の御遷宮の折りに造営されていましたが、中古以来は、神明神社の御古材によって八王子社の社殿を造営しており、八王子社の御古材もまた、島内のお社になります。 永正14年(1517)3月には、箕曲大社の神宮が獅子頭八頭を度会郡山田郷の8社に納め、そのうち一頭が八王子社に奉納され御神宝として大切に守られています。

八王子社の旧社殿。神明神社から受け継いだ柱は40年の歴史を持つ。